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ー第1章ー 2,Sanctuary

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-08-08 21:33:26

 其の一件はどうやら目撃者が何人かいたらしい。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースの様にセシルの味方をするものもいればヘンリイ、エドガアの様にシリルに同情するものもいたが、セシルは相変わらずの様子で朝は遅いため余りビュッフェでは見掛けない。同じ授業を受ける時にも居る時と居ない時があった。恐らく部屋で飲酒、喫煙をしているかボオイフレンド又はガアルフレンドと遊んでいるかだろう、とイレヱヌは推察した。イレヱヌは此の学校に来てから何度かデェトの誘いをされたことは有るものの、一度も受けた事は無い。全く知らない、興味も持てない相手と遊びに出掛けることなど楽しくない事くらい想像がついた。

「ええっイレヱヌはまだボオイフレンドが出来たことないんだ?」ミルクシェイクを飲みながらセシルは目を丸くした。敷地内に併設された映画館で“昼下りの情事”を観た後にカフェで映画の感想やオウドリィ・ヘップバアンの美しさについて語った後に、恋愛観にも話が及んだ時そう答えたら驚かれた。

「変?」とイレヱヌがクレエプシュゼットを小刀ナイフで切りながら首を傾げる。皿からはカラメルソオスと甜橙オレンジの薫りが立ち上る。「変では無いけど……でもデエトしたり恋愛するのって楽しいよ?ちょっと勿体無い気がする」とセシルは答えた。「イレヱヌは物凄く美人だし、勿体無いなとは思う。サン=ポウルの中では一番美人だよ」と言い、「尤も、僕は同率で1位だけど」と付け加えることも忘れなかった。イレヱヌはくすくす笑った。セシルのわざと道化を気取った自己陶酔ナルシストな所はセシルのチャームポイントだとイレヱヌは気に入っていた。一頻り笑った後、「そう?一人で本を読んだり映画を観たりすることの方が楽しそうだけど」とイレヱヌが疑問を溢すと

 「そんなこと無いよ。自分の事を可愛い、綺麗って言って甘やかして愛してくれる人が居るって素敵じゃない?」そう言うと恍惚うっとりとした表情で笑いかけてきた。なるほど、とイレヱヌは理解わかった。セシルは自分の事を持て囃してくれる相手が欲しいのだ。恋人という自分を受け入れてくれる存在からの愛を受け取ることにセシルは悦びを感じているのだろう。

 (セシルは寂しいのかな)イレヱヌはセシルの父アンソニー・マグワイアの名前を何処で聞いたのか思い出した。不倫の不祥事スキャンダルの報道が連日流れた時に耳にしたことがあったのだ。奔放で社交的に見える友人は複雑な家庭環境で案外繊細な一面を隠しているのかもしれない、と思った。

「セシルは誰かからの愛を感じ続けていたいんだね」納得してそう言うと、セシルはじいっとイレヱヌの目を見つめた後にふっと笑いをこぼした。赤ん坊のような無防備な表情だった。

 明くる日セシルが学校の敷地内にある湖畔の付近で恋人らしき生徒と一緒に居るのを見た。今回は男の子と付き合っているらしい。セシルの傍らにはワインの瓶や煙草、桃などがある。晴天のため湖畔は水面が揺れると砕かれた金剛石ダイヤモンドが散りばめられたように煌めいた。セシルのボオイフレンドは湖畔の耀を|舞台照明《スポットライト》にエルヴィス・プレスリイの“監獄ロック”を振り付け付きで歌ってみせていた。セシルは笑い声をあげながら其れを聞いている。一通り歌い終わったところで「Bravo!ブラーヴォ」とセシルは拍手を送り称賛をした。確か三歳くらい歳上の人だっけ、とぼんやり思い出していると二人は見詰め合いやがて情熱的な接吻キスをし始めた。何故か見てはならないものを見てしまった気になり、慌ててその場を立ち去った。セシルと恋人が一緒に居るところは何度か見掛けたことがあるが接吻キスをしているところを見たのは初めてだ。恋人同士ならそんなことしていて当たり前なのにそれでもイレヱヌは驚いた。自分も何れボオイフレンドを作り、ああいう事をする日が来るのだろうか。全く想像も付かなかった。恋愛小説や映画、オペラや舞台は好きだが、自分が其の当事者になるというのは何故か考えた事も無い。イレヱヌは今まで恋愛というものに興味や憧れの感情を抱いた事もない。何れは自分もしたい、恋人が欲しいと望む様になるものだろうか。そもそも自分が今のところ興味があるものは芸術アート、小説、映画、劇、バレエ位だ。そして其処に家族やルル、最近はセシルといった極一部の存在が加えられる。其れだけでは駄目なのだろうか。イレヱヌは自分の感覚に不安を覚えた。

「おい、お前今度の休日暇だろ。付き合えよ」明くる日ビュッフェで横柄に話しかけられる。イレヱヌはうんざりした。こんな話し方をする人間は一人しかいない。辟易しながらそちらを見ると案の定シリルが立っていた。

「暇じゃない」一言だけ返すと「嘘つけ。マグワイアとは何の予定も無いことは知ってる。お前彼奴以外に友達なんかいないだろ」何て失礼な物言いだろう。確かに休み時間や休日は一人で過ごすことが多い。けれど其れをイレヱヌは不満に思ったことなど無いというのにこんな言われようをされてしまうのか。怒りを何とか抑えながら「読書したり、音楽聴いたり、課題をしたりする」「あんたと過ごす時間なんか何処にも無い」そう言って足早にその場から離れようとした。

「おい、俺が態々休日付き合ってやるって言ってるんだぞ」突然訳の分からない事を言い出した。頬が熟れた林檎の様に紅く染まっている。「そんなこと望んでない」そう言うとその場を離れた。周りの生徒達の視線が突き刺さる。居たたまれない気持ちに襲われた。人魚姫のごとく泡となって消えてしまいたい心境だった。後ろで拳を握り締めるシリルの姿など見もしなかった。

「ねえイレヱヌ、シリルからデートに誘われたって本当?」シルク生地のフリルたっぷりのワンピース型部屋着デザビエ姿のセシルはイレヱヌの淡いブルウのトワルド・ジュイ柄の天蓋寝台ベッドに腰掛け、スイィトヴェルモットを少しずつ飲みながら話し掛けてきた。本当は男子は女子寮には入ってはならないという規則だが、セシルはそもそも女子の間で男子にカウントされていなかった。案の定例の件はあっという間に学園中に広まったらしい。目撃者が複数居たので当然と言えば当然だ。噂が広まる内にとんでもない尾ひれまでついてしまったようだ。

「そんなわけ無いでしょ」イレヱヌは自室のベッドに突っ伏したまま答えた。顔を上げる気力すらない。ルルは先ほどから心配そうにイレヱヌの頭をペロペロと舐めている。

「脅されて馬鹿にされただけだよ。何時もの事」

 ようやっと顔を上げてぼそぼそと返答する。

「そうなのかな?彼奴凄く餓鬼だから、幼稚な言い方しか出来ないだけかもよ?」腑に落ちない様子でセシルは思案していた。

「そんな訳が無いでしょ」ハハッと思わず乾いた笑いが漏れ出た。何も可笑しく無くとも人間とは疲弊し過ぎると笑う事しか出来なくなる時も有るようだ。

「若し仮に好きだとするなら此れまでのあの悪意に満ちた言動は一体何なの?」此れまでの数々の仕打ちがそんな理由を元に行われていたというのであれば憎しみしか沸いてこない、とイレヱヌは思う。

「ふふっ。イレヱヌは大人っぽく見られるけど恋愛は慣れてないよね。男って女の子よりも何時までたっても子供のままなんだよ」くすくすと笑いながらベッドに横たわりセシルは答えた。「幼稚な注意の引きかたしか知らないし、悪ぶるのが格好いいとか勘違いしたりするものなの」妙に説得力を感じる言葉だが其れも当然だった。目の前にいるのは男の子とも恋愛の出来る男の子なのだ。イレヱヌは男、女という括りではなく“セシルはセシル”という意識でしか接したことが無かった。

「何時まで此れが続くのかな……」疲弊しきって思わず口をついて出てしまった。此れがずっと続くかと思うとぞっとしない。

 「彼奴が多少は成長するとかかな?若しくはイレヱヌに恋人が出来たらとか」

 どちらも今のところ希望が持てない話だ。奴が変わるのは想像がつかない。そして自分に恋人が出来る事も有り得ない、とイレヱヌは思った。

「どちらも望みは無さそう」落胆した言葉がぽろりと零れると「え?どうしてそう言いきれるの?」とセシルは訊いてきた。「案外、身近に想いを寄せてる人だっているかもよ?」そう言ってじっと妖しい眼差しでイレヱヌを見詰めてくる。ブグロウのクピドを思い起こさせる眼差しだ。此の眼差しを見たことがある、とイレヱヌは思った。恋人といる時のセシルは此の様な顔をしている時があることを思い出した。

 自分に恋人を作っている暇など無い、とイレヱヌは自身を省みる。成績が悪い訳でも勉強が嫌いな訳でも無いものの、他の子達のようにやりたいことも未だ明確になってはいないのだ。セシルは将来は舞台やショークラブの花形スターになりたいらしい。マリリン・モンローの様な毛皮やドレスを身に付けて髪をウェーブさせて歌を歌いたいのだと目を輝かせて語った。懐古趣味は何時の時代でも受けるからジャンルだから“紳士は金髪がお好き”での金剛石ダイヤモンドは一番の親友”を歌うのも受けるかな、目を耀かせながらセシルは楽しそうに語ってくれた。

 イレヱヌにはセシルが眩しくて仕方がなかった。セシルは水晶のように透き通った未來を見て、彫刻家のごとく明確に夢の形を描いて彫っているのだ。此の様な明確な夢を持っているのはセシルに限らない。シリルは実家が代々政治家を輩出している家系のため、父親が政治家を引退した後は自分が跡を継ぐのだと言っていた。どうやらシリルには兄が何人か居て既にサン=ポウルは飛び級で卒業したようだ。兄が優秀なだけに普段から余り余裕が無いのだろう、とセシルは呆れていた。親の仕事を継ぐことを目標にしているのはシリルに限った事では無い。男の子は大抵が家業を継ぐため、継いだ後の人脈作りに役立てる為にサン=ポウルに入学している子は沢山いた。

 まるで自分だけが居場所が無く、宛もなく彷徨い歩いている気分だった。特技や将来設計を持つ子達が羨ましい。きっとあの子達は他人に入り込めない、自分だけの城を築けるだろう、とイレヱヌは思った。自分も其のような居場所が欲しかった。他人に奪われることなく、入り込む事も出来ない。自分で自分を守れる聖域サンクチュアリが欲しかった。

 イレヱヌはバレエが好きだし、亜米利加では、バレエ教室に通う同世代の中では飛び抜けて上手かった。しかし其れだけだった。世界で活躍するプリマ達の様な、自分の人生総てを捧げるほどの情熱や才能が無いことが解った。

 同級生のジュリエット・サンダースが“白鳥の湖”主演のオデット、オディイル役を射止めたことでそれが良く解った。ジュリエットは誰よりも早く稽古場に来て練習をして、誰よりも遅く居残りをする。決して弱音を吐かずに淡々と練習をして舞台では誰よりも輝く女の子だった。ジュリエットも間違いなくバレエ団でバレリイナという他人に奪えない自分だけの城を築くと確信した。イレヱヌは自分が主演に成れなかったことが驚くほど悔しくなかった。否、少しは悔しかった。その事を悔しく思えない自分という存在が。あれ程熱中し、昔から続けてきたバレエに関することだというのに。特別な両親から生まれた平凡な人間イレヱヌ・スチュワアト。其れこそが自分という存在だった。

 昔ジャンヌとファッション雑誌の写真撮影でポーズを取るのは楽しかったな、と思い出し何か仕事で出来ないかと探したものの、今のところはオートクチュールメゾンの専属マヌカンという顧客の前で服を着て歩いて見せたり新しいコレクション製作の期間では何時間もマネキン代わりになる仕事位しか無いらしい、と分かった。そしてイレヱヌがやりたい雑誌の撮影は薄給を補うためのあくまで副業に過ぎないらしい。はあ、と重い溜め息が思わず洩れた。自分は自分だけの城若しくは聖域サンクチュアリとも言える安住の場所が欲しくて態々瑞西スイスまで来たというのに。此のままでは何も掴めない。その不安がじわりと墨汁のように黒く胸に広がった。

「何だよ。溜め息なんかつきやがって」最悪だ。セ デギュラス心の中で悪態をつく。自分はどうしてこうも不運なのだろう、と己れの運命を呪わずにはいられなかった。こんな時に何故敵であるシリル・ベネディクトがいるのだろう。

「あんたには関係無い」そう言い返すのが精一杯だった。頼むから早く他所へ行って欲しい、と心の中で懇願するも「関係無いなんて事は無いだろ。次の授業同じなんだから。隣で何時も以上に陰気でいられると気が散るんだよ」間髪いれずに言い返される。元々シリルは頭が良く弁も立つ利発な生徒だ。まともに口論となった場合はイレヱヌに勝ち目は無い。イレヱヌは黙りこくるしかなかった。「何か悩みが有るんだろ?」言い当てられて思わず目を見開く。「あのな、其れくらい誰でも分かるぞ。ここにいたら誰だって多かれ少なかれ悩む事くらい有るに決まってる。そんなこと別に変でも何でもない」呆れた口調でシリルは言葉を続ける。そんな風に考えたことが無かった。周りの皆は何も苦労や悩みを持たずに将来の目標を持てる中で自分だけ特別何も出来ないままなのだと思い込んでいた。暫く黙りこくり、「そっか」「そうね」ようやっと言葉を紡いだ。

「で、お前は何に悩んでるんだよ」再び訊ねられた。「卒業した後は、どんな道に進めば良いのかなって思ってて」思わずぽろりと悩みが零れた。

「自分は何に向いてるのかが、何がしたいのか未だに分からない」

「卒業後なら結婚するんじゃないのか」シリルは意外そうに訊ねてきた。「結婚は……そもそも好きな人もまだ出来たこと無いし…」イレヱヌはもごもごと答える。結婚はそもそも自分には向いていない、とイレヱヌは確信している。パーティーの招待客達の様子を見ればそれは分かった。自分が両親に認めて貰える結婚をするとしたら間違いなくあの世界で生きている人間の誰かとしなければならないのは明白だ。見ず知らずの人間達に感じ良く振る舞い、完璧な妻を演じる事など到底不可能な事に思えた。

 「好きじゃ無くても良いんだよ。家や会社を守れるなら恋愛感情なんか無くても家族にはなれる」シリルは暗く険しい顔をして答えた。イレヱヌは此の様な深刻シリアスな顔のシリルを初めて見た。「あたしは王族の人じゃないし、第一今はそんな時代じゃない筈だよ。好きじゃ無い人と結婚するなんて絶対に厭だ」尤もエドワアドはイレヱヌが資産が有って家柄が良く賢い男の子と結婚出来たとしたら心から喜ぶだろう、と思っていたら、「そうか」ぽつりとシリルが溢した。

「お前はきっと、そういう結婚をするんだろうな」シリルは遠い目で窗の外に目をやった。外の日は傾いて菫色に染まった雲と金の陽を帯びた緋色オレンジに空が塗られている。日の陽でイレヱヌ達の頬も金色に染まり、頬の産毛が桃の皮のごとく照らされた。イレヱヌは、何故か此の瞬間はきっと此れから何度も思い出すだろう、思った。

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